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月曜日, 7月 28, 2008

浮世根問(うきよねどい)


長屋のご隠居と八っつぁん。
八っつぁんは物知り(でも知ったかぶり)で有名なご隠居さんに矢継ぎ早に質問します。

「極楽はどこにある?」「がんもどきの裏と表は?」「いわしは何でいわし?」

・・・

「うなぎは何でうなぎって言うんです?」
「あれは昔のろと言ってな、鵜がのろを飲み込もうとすると食われてはいけねぇってんで鵜の首に巻き付いた。鵜は苦しくてもがいている。それを見たやつが「あぁ、鵜が難儀してる。ありゃうなぎ(鵜難儀)だ!」」
「へ〜なるほど、じゃ、うなぎを焼くと何で蒲焼きって言うんです?」
「鵜に食われるような馬鹿な魚だ。それを焼くからばか焼きだ、ばか焼きだ、蒲焼きだと」
「え?じゃ、ばか焼きでいいじゃないですか?」
「ひっくり返さないとよく焼けねえだろ!」
・・・
「しゃこは何でしゃこって言うんです?」
「しゃこは車エビに似てるだろ?あいつらは仲間だ。車エビは美味いから色んなものに追っかけられる。それを見たしゃこは仲間だからって『おーい!こっち来い!こっちへ逃げろ!こっちの穴に入って来い!こっち入って来い!・・・って車を入れてしゃこ(車庫)ってんだ」
・・・

個人的に今日のリクエストはこの「浮世根問」です。
まぁ、立川談志を堪能できるだけで満足です。

土曜日, 7月 26, 2008

突然の『電気屋の加藤』


昨日、前から欲しかったmac用のワイヤレスマウスを買いに加藤がいる某家電量販店に足を運ぶと、案の定加藤がいました。
全盛期のアーノルド・シュワルツェネッガーを彷彿とさせるツンツンヘアはもうお馴染みでしたが、今回新たなアイテムとして黒縁メガネが加わってました。
しかも、加藤と僕が重なった時の引きの強さを感じさせるエピソードがありました。

僕が意気揚々と念願のワイヤレスマウスを小脇に抱えレジに向かった時、ちょうど僕の前で会計をしてたお客さんが何やら焦ってます。財布を忘れた模様です。
お客さんは申し訳無さそうに

『すいません・・・財布忘れてしまったんでそちらキャンセルで・・・』

加藤の同僚であるレジの女性従業員は『あ、かしこまりました』と一言。
恥ずかしさのあまりそのお客さんはそそくさとレジを後にしました。
するとその時、レジの女性従業員と加藤が何やらアイコンタクト。
「恥ずかしいねぇ」的な不適な笑みを浮かべる加藤の姿。

あ~腹立つ!

今回は何も言わず流し目で加藤を威嚇して帰ってきました。

金曜日, 7月 25, 2008

久しぶりの立川談志


大阪出身ということもあり、もともとお笑いには造詣が深く、特にダウンタウンの笑いが好きで、その他お笑い全般にも常にアンテナを張っているつもりです。
一口に「お笑い」といっても漫才にコントにピン芸にと色々ありますが、「笑い」を仕事にする「芸人」という仕事は本当に貴いものだと思います。

ここ2、3年はもっぱら落語に没頭してます。
きっかけは会社の同期に誘われて行った浅草演芸場でした。
テレビで何となく見ることはあったものの、初めて目の前で落語を見た時すごく大きな興味を感じました。
噺家さんのエネルギーが寄席全体の空気に伝播して行くあの感じ。
もし経験されたことのない方は是非経験してみて下さい。

中でも一番のお気に入りは立川流家元・立川談志さんです。
世間的には何かと異端児的なアナーキスト的な難しそうなおっさんというイメージが強いですが、立川談志さんがやろうとしていることは一貫して「古典文化を現代に伝えること」です。
立川談志さんは古典落語を徹底的に解体して立川談志流に再構築します。
でも、詰まる所立川談志さんは古典を追求しています。だからやってる落語は代々語り継がれてきた「古典落語」です。異端児でもアナーキストでも難しそうなおっさんでもなく、純粋でピュアで正直なおっさんです。

自身3回目の生・立川談志さんを来週の月曜日に見ます。
今体調が最悪らしく、本人が常々口にしてるように「自殺する方が楽」らしいです。
早く見たいのと談志さんの体のことと、楽しみと心配が入り交じってる今日この頃です。

木曜日, 7月 24, 2008

満を持して


「南明奈¥680」を買いました。
河合奈保子が「秀樹の妹分」なら南明奈ことアッキーナはもはや「虎師匠の妹分」です。

という流れでよく巷の雑誌などで特集される「理想の○○」でいうと「理想の上司」は日本電産代表取締役・永守重信氏です。

ということで突如始まった『虎師匠 人物伝』。次回(不定期)は日本電産社長・永守重信氏をご紹介致します。

金曜日, 7月 18, 2008

ヒデ〜オ、ヒデェェオ


阪神タイガース21年ぶりの優勝で沸いた1985年。
当時小学校3年生だった僕は大のタイガースファンの母親と、月に一度は甲子園に足を運び「強いタイガース」に熱い声援を送っていた。
「強いタイガース」も86年以降は尻すぼみになり、バースも掛布も88年には現役を退いた。
僕も小学校4年生になってサッカー部に入り、1986年のメキシコワールドカップに彗星の如く現れたマラドーナに夢中になった。
サッカーに没頭すること、自分が段々と大人になっていくこと、「強いタイガース」が「ダメ虎」に成り下がっていくこと・・・
そんな混沌とした僕の青春時代に一つの大きな衝撃を与えたのが野茂英雄だった。
1989年、僕が中学校1年生の時に地元近鉄バファローズにドラフト1位で入団。中2の春の野茂プロ初登板を見たその瞬間から僕は「トルネード」の虜になった。
「サッカー部はきついから」という安直な理由で柔道部に入部していた僕は、毎晩のように家の向かいの駐車場で背負い投げの練習よりも「トルネード」を練習した。「トルネード背負い投げ」でも練習しとけば柔道部で結果を出せたのだろうか・・・
口数の少なさ、ポーカーフェイス、直球勝負、フォークの落差、清原がライバル視する、仰木監督の申し子、とにかく野茂英雄はかっこ良かった。

1995年。日本は阪神大震災、オウム事件などで陰鬱だった。僕も浪人一年目で陰鬱だった。
そんな時、野茂英雄はメジャーのマウンドに立った。
またまたかっこ良かった。陰鬱な状況を野茂英雄が一掃してくれた。
「トルネード」がアメリカを席巻した。アメリカ人が野茂英雄にひれ伏した。そして賞賛した。
でも一番かっこ良かったのはとあるスポーツニュースでの一コマだった。
取材したスポーツキャスターは野茂英雄に日本のプロ野球は組織的で、練習がキツくて、個性をつぶすような体制、それに比べてアメリカの野球は選手の自主性に全てを任せて自由で素晴らしいですねという言い方をした。
その時野茂英雄はこう言った。

「アメリカの野球にも日本の野球にもいいとこもあるし悪いとこもあります。だから両方を勉強できてよかったと思います。」

僕にはこれこそ世界を渡り歩き、世界と勝負する男の最高で最強の生き方だと思う。
人と接する時もそうだと思う。その人のいいとこも悪いとこも両方見て、そこから自分にとって有益なものを学ぶ。たくさんの本を読んで勉強する。その中からいいところをピックアップして実践する。多くの人達たちの仕事ぶりを見る。その中から共感できないことは絶対にやらない。

こういう素晴らしいことを野茂英雄という一人の人から学んだ。
悔いはあるそうですがひとまずお疲れ様でした。
ありがとうございました。