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水曜日, 8月 19, 2009

8/18志の輔らくご in 下北沢  牡丹灯籠

志の輔体験は自身二度目。
今回は2006年から続けて行っている恒例の「牡丹灯籠」。

落語中興の祖と言われる三遊亭圓朝作の大作「怪談 牡丹灯籠」は志の輔さんいわく、文字におこして16万字、初めから終わりまで演じると20時間でも済まないという大演目をだそうだ。
お恥ずかしながら僕はこの大作を名前は知ってるけど見たこともなければストーリーも知らなかった。

第一部は志の輔さんがこの話に出てくる登場人物とその相関関係をパネルを使って解説。
解説の中で時折混じる登場人物の会話やそれに付随する噺で志の輔らくごにグッと引き込まれる。
いつの間にか前のめりになっている自分がいる。
約一時間の解説では噺の「起承」あたりまで(とはいえこの噺、20人近くいる登場人物たちそれぞれにそれぞれの大きな物語があるから飽きない)、第二部で物語の転結を落語で演じるという演出。

色・恋・金・欲、いわゆる「業」にまみれた世界、しかも極めて狭小な世界の中でぶつかり合う思惑と思惑。殿の仇、父の仇を討つために突き進む孝助。
結末は本当に衝撃的でした。

それよりも何よりも志の輔らくご。
志の輔さんは、自分が語ることでお客様の頭の中に無数の世界が広がるというようなことを言っていた。
まさにそのとおり、落語を観る私たち観客は、落語家さんの表情や声色、立ち居振る舞い、所作からそれぞれの八っあん、熊さん、隠居さん・・・を頭の中に作り上げる。小説も同じことだが。
志の輔らくごを観て僕は、登場人物の顔や背格好のみならず、その人たちの腹の中、胸のうちまでが手に取るように感じられた。その凄さに圧倒された。

加えて、「業」にまみれた世界を描いたこの噺、家元談志の著書を読み漁ってる僕は家元談志のいう「落語は人間の業の肯定」を何となく理解したつもりでいたが明確な説明は出来なかった。

崖っぷちに追い込まれた状況でも生き延びようとする人の姿、金に目がくらむ人の姿、大きな罪を犯した我が子でさえ許そうとする母親の姿、これらを観た時「人間の業の肯定」の意味を志の輔らくご「牡丹灯籠」で少し理解できた気がした。

志の輔らくご恐るべし。
好きな落語家、見たい落語家が増えすぎてどうしていいのやら。
どうしていいのやらといいつつ、そんな自分が好きで金も時間も惜しまない自分の姿を許してしまっている。
これも業の肯定か?

1 件のコメント:

Anonymous 緑子 さんは書きました...

こんにちは。
「牡丹灯籠」行けなかったのですが、面白さが伝わりました。来年に、期待しようとおもいます。

志らく師の「演劇らくご〜鉄拐〜」は、千秋楽に
ぎりぎりで間に合いました;
最後、鉄拐仙人がお腹のなかに人間を入れて続いてゆくところは、優しみであり、
「人間の心」で云うところの“寂しさ”でもあるのかもしれない、とも考えてしまいました。。
加えて、市馬師匠にも参りました^^

家元の仰る「人間の業の肯定」は
ほんとうに落語には随所に散りばめられていて
「イリュージョン」とおなじく、言葉にあらわすのは至極むつかしいのだけども、
聞くたびに少しずつ、うっすら理解るようなかんじもして、、
やっぱり、むつかしいですね。^^;
だけども、虎師匠さんの感じられている
業の肯定、とても伝わります。(上からぽくて、すみません^^;)
家元、お身体が案じられますが
来年にはまた、元気なお姿を見れるよう、
お待ちしたいですね^^

5:17 午前  

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